俳諧 



俳諧反故籠

 毎日見馴れたる十歩の小庭にでも探せば詩趣は出で来るなり、きのふ探し尽したる後にも
 猶探し居れば今日も亦新しき詩趣を得ん、況して四時朝夕日夜、時の変る毎に詩趣常に新
 なるべし、
 試みに門前に出でよ、試みに郊外に出でよ、何物か詩趣ならざらん、何事か材料ならざら
 ん、されど小庭門前郊外のみに安んずるは宣しからず、若し出来得べくんば高山大海にも
 遊べ、名所旧跡にも遊べ、詩料いよいよ多く詩想ますます高からん、

                              (『ほとゝぎす 第二号』 明治30・2・15)

                              ※正岡子規〈1867-1920〉
 



               遺状 その三

  一、杉風へ申候。久々厚志、死後迄難忘存候。不慮なる所に而相果、
    御暇乞不致、互に存念無是非事ニ存候。弥俳諧御勉候而、老後
    の御楽ニ可被成候。

  一、甚五兵衛殿へ申候。永々御厚情ニあづかり、死後迄も難忘存候。
    不慮なる所ニ而相果、御暇乞も不致、互ニ残念是非なき事ニ存候。
    弥俳諧御勉候而、老後はやく御楽可被成候。御内室様之不相替
    御懇情最後迄も悦申候。

  一、門人方、キ角は此方へ登、嵐雪を始として不残御心得可被成候。


         元禄七年十月        自筆 はせを 朱印 

                     ※松尾芭蕉〈1644-1694〉
 
 



     竹内玄玄一著『俳家奇人談』『続俳家奇人談』抜粋

                 
 宗祇法師壮年の頃なりしが、ある人について、連歌のことを問はれしに、
 惜しいかな歳十歳蘭たり。連歌は二十年の功を積まざれば、その妙に至
 り難しと答ふ。叟曰くしからば十年昼夜励みなば如何と。
                     ※飯尾宗祇〈1421-1502〉


 捨女は丹波の国柏原田氏の女なり。少小より風流のきざし見ゆ。六歳の冬
雪の朝二の字二の字の下駄の跡 

 
                       ※田捨女〈1633-1698〉 

われは浮世をよるべ定めず、
あるひは野末に昼寝の夢を結び、
あるひは山中に一村の雨を凌ぐ。
     ※松尾芭蕉〈1644-1694〉


一、わが家の俳諧に遊ぶべし。世の理屈をいふべからず。
 
                 ※向井去来〈1651-1704〉


一心源頭に上りての所作、柳は緑、花は紅、ただそのまま
にして、つねに句をいひ、 歌を綴りて遊び申し候事に候。
 
                   ※園女 <1664-1726〉


われに俳諧の師なく、また門人もなし。ただ正直なる小児の、
舌しどろに言ひいだせるが、おのづから五七五にかなふべし。
 
                  ※横井也有〈1702-1783〉


妻子をやしなふに、銭尽る時は、出でて網打ち、砂どりし、担ひ去
つて都の市にひさぐ。帰路酒を買ひ、たのしみて詠吟すといふ。
 
                    ※与謝蕪村〈1716-1783〉

 



向井去来『去来抄』


  去来曰く「蕉門に千歳不易の句、一時流行の句といふあり。是を二つに分けて教へ給へる、
  其元は一つなり。不易を知らざれば基たちがたく、流行を知らざれば風新たならず。不易
  は古によろしく、後に叶ふ句なる故、千歳不易といふ。流行は一時一時の変にして、昨日
  の風今日宜しからず、今日の風明日に用ひがたき故、一時流行とはいふ。はやる事をする
  なり。」

  去来曰く「俳諧の修行は、おのが数寄たる風の先達の句を一筋に尊み学びて、一句一句に
  不審をおこし難を構ふべからず。若し、解きがたき句あらば、いかさま故あるらんと工夫
  して、或は巧者に尋ぬべし。我が俳諧の上達するにしたがひて、人の句も聞ゆるものなり。
  始めより一句一句を咎めがちなる作者は、吟味のうちに日月かさなりて、終に功のなりた
  るを見ず。」

                              ※向井去来〈1651-1704〉

                



向井去来『旅寝論』


 問ひて曰く、上手になる道筋慥かにあり。師によらず、流によらず、器によらず、畢竟句数
 多く吐したるものゝ、昨日の我に飽ける人にて上手にはなれりといへり。然れば師伝にはよ
 らざる事に侍るや。
 去来答へて曰く、勿論さもあるべし。然れどもこれは抜群の人なり。尋常の人の及びがたか
 らん。先師はもと季吟師の弟子なり。はじめその風を学び給ひ、晩年にいたり一己の風あり。
 上達して一己の風を建立する場に至りては、あながち師によらざるに似たり。その元をおし
 来たる時は、師によれり。師は針のごとく弟子は糸のごとし。針ゆがむ時は糸ゆがむ。この
 故に古より師を選らむを肝要とす。師を離れて独歩するものは、尤も一口に論じがたし。又
 善き師あれども数句を吐かず、自己に慢じて先に進む事を知らざる人は、身を終はるとも達
 人になりがたし。許六のいへる、きのふの我に飽くと、誠に善き言なり。先師もこの事折々
 物語りし給ひ侍りき。
  
                                           ※向井去来〈1651-1704〉
 

                                 
                                 
                  向井去来『去来抄』

  田のへりの豆つたひ行く蛍かな

 元は、先師の斧正有りし凡兆が句也。『猿蓑』撰の時、凡兆曰く「此句見る処なし。のぞく
 べし」。去来曰く「へり豆を伝ひ行く蛍火、闇夜の景色、風姿あり」と乞ふ。兆許さず。先
 師曰く「兆もし捨てば、我ひろはん。幸ひ、伊賀の句に、似たる有り。其を直し、此句とな
 さん」とて、終に万乎が句と成りにけり。
                   (※田の畝の豆つたひ行蛍かな 万乎(『猿蓑』)


                                            ※向井去来〈1651-1704〉




 向井去来『去来抄』

師曰く「一巻表より名残まで一体ならんは見苦しかるべし」.去来曰く「一巻
 表は無事作すべし。初折の裏より名残の表半ばまでに、物数奇も曲も有るべし。
 半ばより名残裏にかけては、さらさらと骨折らぬやうに作すべし。猶好句あらん
 とすれば、却て句しぶり、不出来なる物也。されど、末々迄席いさみありて好句
の出で来らんを無理にやむるにはあらず。好句を思ふべからずといふ事也」。
 其角曰く「一巻に我句九句十句ありとも一二句好句あらばよし。不残好句をせん
 と思ふは、却て不出来なる物也。いまだ好句なからん内は随分好句を思ふべし。
 
                        ※向井去来〈1651-1704〉





服部土芳『三冊子』


功者に病あり。師の詞にも「俳諧は三尺の童子にさせよ。初心の句こそたのもしけれ」
などと度々云ひ出でられしも、みな功者の病を示されしなり。実に入るに気を養ふと殺
すとあり。気先を殺せば句気に乗らず。先師も俳諧は気に乗せてすべしとあり。相槌あ
しく拍子をそこなふとも云へり。気をそこなひ殺す事なり。また習ふ時は、我が気をだ
まして句をしたるよしともいへり。みな気をすかし養ふの教へなり。門人功者にはまり
て、たゞ能き句せんと私意をたて、分別門に口を閉ぢて案じ草臥るゝなり。おのが習気
を知らず。心の愚かなる所なり。師のいはく「句は天下の人にかなへる事は安し。ひと
 りふたりにかなゆる事かたしのためになす事に侍らばなしよからん」とたはれの詞あり。
                  
                            ※服部土芳〈1657-1730〉
 




服部土芳『三冊子』

  師の曰く「たとへば歌仙は三十六歩也。一歩も後に帰る心なし。行くにしたがひ、心の改ま
  るは、たゞ先へゆく心なれば也。発句の事は一座、巻の頭なれば、初心の遠慮すべし。『八
  雲御抄』にもその沙汰あり。句姿もたかく、位よろしきをすべしと、むかしより云ひ侍る。

                                           ※服部土芳〈1657-1730〉





鬼貫『独ごと』

  俳諧の道はあさきに似て深く、やすきに似てつたはりがたし。初心の時は浅き
  よりふかきに入り、至りて後はあさきに出づとか聞きし。 いにしへの俳諧師
  は百日の稽古より一日の座功といひて、只会に出なん事大切に思ひ侍りし。

  ことやうの句を作りてそれを新しとおもふ人は、此道を深く尋ね見ざれば、遠
  きさかひに入りがたくや侍らん。詞は古きを用ゐ、心は新しきを用ゆ、とこそ
  聞きしか。
 
                       ※上嶋鬼貫〈1661-1738〉
                   




与謝蕪村『歳末の弁』

 名利の街にはしり貪欲の海におぼれて、かぎりある身をくるしむ。わきてくれゆくとしの
 夜のありさまなどは、いふべくもあらずいとうたてきに、人のかどたゝきありきてことご
 としくのゝしり、あしをそらにしてのゝしりもてゆくなど、あさましきわざなれ。さとて
 おろかなる身は、いかにして塵区をのがれん。「としくれぬ笠着てわらぢはきながら」。
 片隅によりて此の句を沈吟し侍れば、心もすみわたりて、かゝる身にしあらばといと尊く
 我がための摩訶止観ともいふべし。蕉翁去りて蕉翁なし。とし又去るや又来たるや。
                         
  芭蕉去りてそのゝちいまだ年くれず

                               ※与謝蕪村<1716-1783>
 




『俳諧大要』第六 修学第二期 



  趣向の上に動く動かぬと言ふ事あり、即ち配合する事物の調和適応すると否とを言ふなり。
  例へば上十二文字または下十二文字を得ていまだ外の五文字を得ざる時、色々に置きかへ見
  るべし。その置きかへるは即ち動くがためなり。
   ○○○○○雪積む上の夜の雨    凡 兆
  といふ下十二文字を得て後、上の句をさまざまに置きかへんには「町中や」「凍てつくや」
  「薄月や」「淋しさや」「音淋し」「藁屋根や」「静かさや」「苫舟や」「帰るさや」「枯
  蘆や」など如何やうにもあるべきを、芭蕉は終に「下京や」の五文字動かすべからずといひ
  しとぞ.一字一句の推敲もゆるがせにすべからざることなり。
  
 
                            ※正岡子規〈1867-1920〉
                             
 




子規の誡め(高浜虚子著『回想 子規・漱石』)


  居士はかつて余らが自己の俳句をおろそかにするのを誡めてこういう事を言ったことがある。
  自分はたといどんな詰まらぬ句であっても一句でもそれを棄てるに忍びない。如何なる悪句
  でも必ずそれを草稿に書き留めておく。それは丁度金を溜める人が一厘五厘の金でも決して
  無駄にはしないというのと同じ事である。僅か一厘だから五厘だからと言ってそれを無駄に
  するような考があったら如何に沢山の収入のあるものでも金持になることは出来ない。それ
  と同じ事で、たとい如何に沢山の句を作る人でも、その句を粗略にして書きとめておかない
  ような人はとても一流の作者にはなれない。そういう点に於て私は慾張りであると。即ちこ
  の意味に於て居士は慾張りであった。執着心があった。愛があった。
 
                           ※正岡子規〈1867-1902〉高浜虚子〈1874-1959〉





子規の死を知り虚子に宛てた漱石の手紙


  文章などかき候ても日本語でかけば西洋語が無茶苦茶に出て参候。また西洋語にて認め
  候へばくるしくなりて日本語にしたくなり、何とも始末におへぬ代物と相成候。日本へ
  帰り候へば、
随分の高襟党に有之べく、胸に花を挿して自転車へ乗りて御目にかける位
  は何でもなく候。
    倫敦にて子規の訃を聞きて
   筒袖や秋の柩にしたがはず
   手向くべき線香もなく暮の秋
   霧黄なる市に動くや影法師
   きりぎりすの昔を忍び帰るべし
   招かざる薄に帰り来る人ぞ
  皆蕪雑、句をなさず。叱正。(十二月一日、倫敦、漱石拝)
        c/o Miss Leale,81 The Chase,Clapham Common,London,S,W.より
        麹町区富士見町四丁目八番地高浜清へ
                  〔明治三十六年二月十五日発行『ホトトギス』より〕

 
                ※正岡子規〈1867-1902〉夏目漱石〈1867-1916〉高浜虚子〈1874-1959〉





寺田寅彦「連句雑俎」


  私のこのはなはだ不完全に概括的な、不透明に命題的な世迷い言を追跡する代わりに、読者は
 むしろ直接に、たとえば猿蓑の中の任意の一歌仙を取り上げ、その中に流動するわが国特有の自
 然環境とこれに支配される人間生活の苦楽の無常迅速なる表象を追跡するほうが、はるかに明晰
 に私の言わんと欲するところを止揚するであろう。試みに「鳶の羽」の巻をひもといてみる。鳶
 はひとしきり時雨に悩むがやがて風収まって羽づくろいする。その姿を哀れと見るのは、すなわ
 ち日本人の日常生活のあわれを一羽の鳥に投影してしばらくそれを客観する、そこに始めて俳諧
 が生まれるのである。旅には渡捗する川が横たわり、住には小獣の迫害がある。そうして梨を作
 り、墨絵をかきなぐり、めりやすを着用し、午の貝をぶうぶうと鳴らし、茣蓙に寝ね、芙蓉の散
 るを賞し、そうして水前寺の吸い物をすするのである。
  このようにして一連句は日本人の過去、現在、未来の生きた生活の忠実なる活動写真であり、
 また最も優秀なるモンタージュ映画となるのである。これについてはさらに章を改めて詳しく論
 じてみたいと思う。
  ともかくも、俳諧連句が過去においてのみならず将来においても、必然的に日本国民に独自な
 ものであるということは、以上の不備な所説でもいくらかは了解されるであろう と思う。そう
 して、かのチャンバレーン氏やホワイトマント氏がもう少しよく勉強してかからないうちは、い
 くら爪立ちしても手のとどかぬところに固有の妙味があることも明らかになるであろうと思う。
 
                                ※寺田寅彦〈1878-1935〉
 




寺田寅彦「映画雑感 Ⅰ」


  俳諧連句については私はすでにしばしば論じたこともあるからここでは別に述べない。とにかく、
 連句に携わる人はもちろん、まだこれについて何も知らない人でも、試みに「芭蕉七部集」の岩波
 本を活動帰りの電車の中ででも少しばかりのぞいて見れば、このごろ舶来のモンタージュ術と本質
 的に全く同型で、しかもこれに比べて比較にならぬほど立派なものが何百年前の日本の民衆の間に
 平気で行なわれていたことを発見して驚くであろう。ウンターデン・リンデンを歩いている女と、
 タウエンチーン街を歩いている男と、ホワイトハウスの玄関をはぎ合わせたりするような事はそも
 そも宵の口のことであって、もっともっと美しい深い内容的のモンタージュはいかなる連句のいか
 なる所にも見いだされるであろう。そうしてそのモンタージュの必然的な正確さから言ってもその
 推移のリズムの美しさから言っても、そのままに今の映画製作者の模範とするに足るものは至ると
 ころに見いださるるであろう。しかし現代の日本人から忘れられ誤解されている連句は本家の日本
 ではだれも顧みる人がない。そうして遠いロシアの新映画の先頭に立つ豪傑の慧眼によって掘り出
 され利用されて行くのを指をくわえて茫然としていなければならないのである。

                                                ※寺田寅彦〈1878-1935〉
 




寺田寅彦「俳句作法講座」


   一般的に言って俳句で苦労した人の文章にはむだが少ないという傾向があるように見える。これ
 は普通字句の簡潔とか用語の選択の妥当性によるものと解釈されるようであるが、しかしそれより
 も根本的なことは、書く事の内容の取捨選択について積まれた修業の効果によるのではないかと思
 われる。俳句を作る場合のおもなる仕事は不用なものをきり捨て切り詰めることだからである。

  こういうふうに考えて来ると、俳句というものの修業が、決して花がるたやマージャンのごとき
 遊戯ではなくてより重大な精神的意義をもつものであるということがおぼろげながらもわかって来
 る。それと同時に作句ということが決してそう生やさしい仕事ではないことが想像されるであろう
 と思われる。
  俳句の修業はまた一面においては日本人固有の民族的精神の習得である。本編の初めに述べたよ
 うに俳句という特異な詩形の内容と形式の中に日本民族の過去の精神生活のほとんど全部がコンデ
 ンスされエキストラクトされている。これが外国人に俳句のわからない理由であると同時に日本だ
 けに俳句が存在しまた存在しなければならなかった理由である。同じ理由から俳句を研究すること
 は日本人を研究することであり、俳句を修業することは日本人らしい日本人になるために、必要で
 ないまでも最も有効な教程であり方法である。これは一見誇大な言明のようであるが実は必ずしも
  過言でないことはこの言葉の意味を玩味される読者にはおのずから明らかであろうと思われる。

 こういう意味で自分は、俳句のほろびない限り日本はほろびないと思うものである。
                                               
                                               ※寺田寅彦〈1878-1935〉 


                      連句研究の現代的意義

 連句は言葉で組み立てられ、その言葉の連続において一つの心象を浮かび上がらせている。その心象の具体的なイメージは、
 作者と鑑賞者によって、多少の相違があるはずである。それは、それらの言葉によって思い浮かべられる心象は、各人の過去
 においての具体的な経験が潜在意識の中に浮かび上がって来るものによって、構成せられているからである。かように心象に
 は多少の相違はあっても、そこから感じとられる気分なり情調なりは、だいたいにおいて共通なものであるといってよい。そ
 れは、われわれの思考は言葉を以って考え言葉を以って感じるものだからである。すなわち言葉というものがわれわれ同士に
 は共通の「心の通い路」として生きているゆえである。映画は言葉がない。だから世界共通に鑑賞し得る。連句は国語である。
 だからわが国だけにおいて通じ合うのである。

 かように考えると言葉そのものに関して十分の修養を積んだ者でなくては、連句は容易に創作も鑑賞もでき難いものである
 ことがわかってくる。詩心を言葉に託して表現し、言葉を通して詩心を感じる修養である。そうした修養は、結局われわれの
 潜在意識の中に、多くの詩的な心象の連絡道路を連ねることである。その連絡道路をさらに国道化し県道化して、通い馴れた
 通路たらしめることである。


 連句におけるこの通路は、深い国民性の深奥所において連ねられる。しかもそれは普通の者では、通い馴れないほどの深奥な
 所である。「匂い」「ひびき」「うつり」などと、形なきところにおいて前句に付くと言われるのは、それが普通の連想では
 至り得ない深奥所においての連絡道路であるからである。したがって、国民的な伝統文化を最も豊かに湛えている人々におい
 てのみ、この連絡道路をつけることが可能となる。伝統文化を豊かに保持するためには、国民文化を担っている古典の世界へ
 分け入って、それらを自らの力によって、自己の詩心に吸収しなければならない。そうすることによって、作者は単に自己ひ
 とりの見聞覚知の世界を超えて、あらゆる古人の心を自分の中に取り入れることができる。そうした作業を営むことは、それ
 がまた同時に、同時代に生きている者の精神内容をも、わが中のものとする働きともなるのであって、ここに連句作者同士の
 間における、共通の地盤が成立し得るのである。

                                                       能勢朝次『連句芸術の性格』

                                                                   能勢朝次(1884-1955)  





小宮豊隆「芭蕉の世界」

  西行の像の画讃に、芭蕉は「すてはてゝ身はなき物とおもへどもゆきのふる日はさむくこそあれ
 花の降日はうかれこそすれ」と書いた。「すてはてゝ身はなき物とおもへどもゆきのふる日はさむ
 くこそあれ」の歌が、果して西行の歌であるかどうかは、もつと検討して見る必要がある。然しこ

 の歌が徳川の初期に、少くとも一部の人たちから、西行の歌として信じられてゐた事は、確実であ
 つた。芭蕉も恐らくさう思つてゐたに違ひない。それだから芭蕉は、この歌に更に「花の降日はう
 かれこそすれ」といふ短句を継ぎ足して、西行像の画讃とするのである。
 「願はくは花の本にて春死なむその如月の望月のころ」を初めとして、西行には「花」を愛する歌
 が多い。芭蕉は自分の短句で、その「花」好きの西行の心持の内部へ這入つて行き、愛情を持つて
 からかふやうな気持で、それを明るみへ持ち出した。さうして、さうする事によつて、西行への回
 向とする。然し、他人の心持の内部へ這入つて行くといふ事は、事実は、自分の心持の内部へ這入
 つて行くといふ事である。それを明るみへ持ち出すのは、所詮自分の心持の内部を明るみへ持ち出
 す事に外ならない。ーー自分は「すてはてゝ身はなき物とおも」つてゐる、然し自分は雪が降れば
 寒いと思ふ、花が降れば浮かれずにはゐられない。ーーさう言つて芭蕉は此所で、西行に即しつゝ、
 自分自身の内部を告白するのである。

                                                ※小宮豊隆〈1884-1966〉
 
                                               




柴田宵曲「評伝正岡子規」

 居士は「芭蕉雑談」において、その佳句を称揚するより前に、悪句を指摘した。「芭蕉の
 俳句は過半悪句駄句を以て埋められ、上乗と称すべき者はその何十分の一たる少数に過ぎ
 ず、否、僅に可なる者を求むるも寥々晨星の如し」という劈頭の断案は、月並宗匠の胆を
 奪ったのみならず、世人を瞠目せしめたに相違ない。居士はその理由として、芭蕉の俳諧
 は古を模倣したのではなく自ら発明したのである、貞門、檀林の俳諧を改良したというよ
 りも、むしろ蕉風の俳諧を創始したという方が当っている、その自流を開いたのは歿時を
 去る十年前、詩想いよいよ神に入ったのは三、四年前であろう、「この創業の人に向って
 僅々十年間に二百以上の好句を作出せよと望む。また無理ならずや」といっているが、当
 時にあってこれを読む者は、こういう推論に耳を傾けず、一図に大胆なる放言としたもの
 と思われる。
                           ※柴田宵曲〈1897-1966〉
 
 




ドナルド・キーン「正岡子規」 

   子規が俳句の詩人ないしは批評家としての仕事を始めた時、世間一般には俳句に対する関心の
  衰えだけがあり
しかも記憶に残るような俳人は当時一人もいなかった。子規の重要性は、子規
  が仕事を始めて以来、俳句が博してきた絶大な人気を通して評価することが出来る。今や百万人
  以上の日本人が、専門家が指導するグループに入って定期的に俳句や短歌を作っている。新聞は
  毎週、権威ある俳人や歌人によって評価された素人の詩人たちの詩歌にページを割いている。大
  いなる関心は、日本人だけに限られているわけではない。日本以外の国々で、何千という人々が
  可能な限り多くの規則を守りながら、自国の言語で俳句や短歌を作っている。いわゆる俳句を作
  る技術は、今や多くのアメリカの学校で教えられていて、子供たちはソネットや他の西洋の形式
  で詩を作ることが出来なくても、俳句で詩的本能をみがくことを奨励されている。子規の俳句が
  翻訳の形で現れる以前、外国の日本学者たちは(かりに彼らが俳句に言及してくれたとしての話
  だが)俳句をただの気の利いた警句として片付けていたものだった。しかし、これはもはや事実
  ではない。

    子規の早い死は、悲劇だった。しかし、子規は俳句と短歌の本質を変えたのだった。昔から讃
  美されてきた自然の美を子規は無視したが、しかしこうした無視は基本的に日本人の美的嗜好を
  変えることがなかった。梅の香のほのかな香り、霞のごとくたなびく桜の花々は平安時代と同様
  に今も変わらず日本人を喜ばせているし、何百万とは言えないまでも何万という日本人が秋の紅
  葉狩りのために遠出をする。しかし詩人たちは、もはやそうしたものに触れることはない。詩人
  たちがむしろ好むのは、俳句や短歌を作ることで現代に生きる経験を語ることだった。これは、
  子規の功績だった。

                                        ※ドナルド・キーン〈1922-  〉
   



  芥川龍之介「芭蕉雑記」

     鬼趣

   芭蕉もあらゆる天才のように時代の好尚を反映していることは上に挙げた通りである。その著しい例の一つ
  は芭蕉の俳諧にある鬼趣であろう。『剪燈新話』を翻案した浅井了意の『伽婢子』は寛文六年の上梓である。
  爾来こういう怪談小説は寛政頃まで流行していた。たとえば西鶴の『大下馬』などもこの流行の生んだ作品で
  ある。正保元年に生れた芭蕉は寛文、延宝、天和、貞享を経、元禄七年に長逝した。すると芭蕉の一生は怪談
  小説の流行の中に終始したものといわなければならぬ。このために芭蕉の俳諧も ー 殊にまだ怪談小説に対す
  る一代の興味の新鮮だった『虚栗』以前の俳諧は時々鬼趣を弄んだ、巧妙な作品を残している。たとえば下の
  例に徴するが好い。                                        


     小夜嵐とぼそ落ちては堂の月   信徳       から尻沈む淵はありけり    信徳
      古入道は失せにけり露     桃青      小蒲団に大蛇の恨み鱗形     桃青

     気違を月のさそへば忽に     桃青       夫は山伏あまの呼び声     信徳
      尾を引ずりて森の下草     似春      一念の鰻となつて七まとひ    桃青

     骨刀土器鍔のもろきなり     其角       山彦嫁をだいてうせけり    其角
      痩せたる馬の影に鞭うつ    桃青      忍びふす人は地蔵にて明過し   桃青

     釜かぶる人は忍びて別るなり   其角       今其とかげ金色の王      峡水
      槌を子に抱くまぼろしの君   桃青      袖に入る
竜夢を契りけむ     桃青

   これらの作品の或ものは滑稽であるのにも違いない。が、「痩せたる馬の影」だの「槌を子に抱く」だのの
  感じは当時の怪談小説よりもむしろもの凄い位である。芭蕉は蕉風を樹立した後、殆ど鬼趣には縁を断ってし
  まった。しかし無常の意を寓した作品はたとい鬼趣ではないにもせよ、常にいうべからざる鬼気を帯びている。

     骸骨の画に                                          
   夕風や盆提灯も糊ばなれ                                      
     本間主馬が宅に、骸骨どもの笛、鼓をかまへて能する所を画きて、壁に掛けたり(下略)       
   稲妻やかほのところが薄の穂                                    
                                                    ※芥川龍之介<1892-1927>